Nの魔女
未来古代楽団
Nの魔女
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精霊は手を翻すとサイン帳が手品の様に現れた。我々がお迎えした客の事を見ている様だ…
「そうか、訊ねて欲しかったのか…お前の意思なんだな」
精霊は小声で呟く。その言葉はこの部屋の誰にも向けられていないのが彼の落とした視線で分かる。
「既にここに来るまでに知った事、察している事があるだろう。何処から話そうか」
「お前は誰なんだ、ここは一体」
ヴィレムが唸り声の様なドスを込めて聞く。
「俺はそこに居る三つ編みと赤髪と同じさ。単なる精霊だ…いや、だったと言うべきだな。今は魔女と契約して何とか自我を保った亡霊だ」
「…亡霊、オーナーもそんな事を言っていた。亡霊とは何なんだ?死を超える魔法なんてないはずなのに」
ロゼが眉間に皺を寄せ吐き捨てる。
「オーナー…あぁ、牧師の事か。ここではオーナー…それも彼女の願いだからな」
「話が見えません。僕らは断片的にしか情報を得てない!」
ハビエルが苛立ち珍しく声を荒あげる。イザベラがハビエルを制し、礼儀正しく頭を下げた。
「このホテルは私達にとって大切な場所です。各々が事情を抱え、誰もがオーナーに拾われ救われた。けれど誰も事実を知らないのです。どうかお教え下さいませんか?」
「長い話になる…」
精霊は長く息を吸い込んだ。
魔女にも希少種が居る…大概は感情を司るが、稀に文字を司る者が現れる。奴らはひとつの感情ではなく、その文字に縛られた感情を何でも食う事が出来る…Nの魔女はまさにそれだった。そいつが魔女への嫌悪が最も強い世界線で生まれたのにも関わらず世界が滅ばなかったのは、牧師のお陰と言って良いだろう。
幼子の時に酷い迫害を受けていた所を匿ったのは、プシュラーフのはずれにある教会の牧師だった。魔女や烙印者を集めるテロ集団なんて揶揄されていたが、牧師は純粋に困窮する者を救って回っていただけだ。事実、俺も拾われた口だが、魔女の関係者じゃないからな。ただ、魔女や烙印者は忌み嫌う世界が多い。時に次元を超えて世界線を跨いででも人を救っていたものだから、必然的に教会には魔女や烙印者が多かった。プシュラーフの人々は牧師のその行動を良しとはしなかった。教会への嫌がらせは日常茶飯事だったが牧師は子供達の盾となり、常に笑顔を絶やさず貧しいながらも快適な生活を提供してくれた。…そんな牧師を最も慕っていたのがNの魔女だ。まるで牧師の娘のようにいつも後ろにくっついて歩いていたな…懐かしい。
苦しいながらも囁かな幸せを続けるには、この世界は危う過ぎた。魔女嫌いの世界と迫害を受けてきた孤児達、同じ痛みを持つ者が結託しない訳がない…。テロ集団だと揶揄されていた教会が、何時しか本当に言葉通りに堕ちてしまった。憤怒の烙印者を中心に数名の孤児達が結託し、人間へ報復するようになった。最初は悪戯程度だったが、盗みや破壊活動など内容が過激になるのは時間の問題だった。
そして、歯止めの効かない怨毒の渦はついに超えてはいけない壁を超えた…。プシュラーフと教会の間の森で感情を根こそぎ吸われた死体が見つかった。人間側も魔女と烙印者への嫌悪はとうに憎悪に変わっていたのだ…そうなれば未来なんて…火を見るより明らかだろ?
大好きな教会、共に暮らした仲間、ずっと世話してた花壇、愛していた牧師…Nの魔女はそんな尊い宝をたった一日で奪われたんだ。教会に火が放たれると一斉に武器を持った人間が流れてきた。泣き叫ぶ者、寧ろこの状況を待ち望んでいたのか狂った笑顔で立ち向かう者…本当に地獄そのものだった。肉の焼ける匂い、血飛沫と断末魔…。そして左目を切り裂かれても子供達を庇い続け絶命する…我らの牧師…。混乱の最中で牧師を殺したのが人間なのか、魔女達なのかすら分からない。Nの魔女は他の孤児と共に牧師に抱き締められ、牧師が盾となったお陰で生き残った。自分の目の前で崩れ落ちる牧師を見ながら、彼女は絶望する。魔女と言うだけで迫害する非道な人間を恨むのも痛い程分かるが、この混乱を呼んだのは他ならぬ我々魔女達なのだ。恨む事も、悔いる事も、怒る事も出来ず…ただ静かに絶望の底に堕ちる。
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